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「パフォーマンス・アート」というあいまいな吹き溜まりに寄せて――「STILLLIVE: CONTACT CONTRADICTION」とコロナ渦における身体の試行/思考

たくみちゃん《Digital clock》

「STILLLIVE: CONTACT CONTRADICTION」
日時:2020年12月13日(日)
場所:ゲーテ・インスティトゥート東京
企画:小林勇輝

[1]概要――「STILLLIVE」の背景をなす諸条件
[1-2]「直接的なもの」と「媒介されたもの」
[1-3]パフォーマンス・アートのあいまいな吹き溜まり
[2]「STILLLIVE」レポート&レビュー
[2-1]乾真裕子《track.1》
[2-2]たくみちゃん《Digital clock》
[2-3]濱田明李《steal live》
[2-4]小林勇輝、阪口智章、敷地理、関優花、野崎真由
[2-5-1]武本拓也《雨》
[2-5-2]武本拓也②―身体の〈遅延〉と信頼の生成
[3]おわりに――〈速度〉と〈遅延〉の両義性はいかなるプラットフォームの可能性を開くだろうか?

[1]概要――「STILLLIVE」の背景をなす諸条件

 12月13日(日)、13名のアーティストによる「STILLLIVE: CONTACT CONTRADICTION」1というパフォーマンス・イベントを、ゲーテ・インスティトゥート東京で見た。わたしが体験したそれを書き留めておきたい。最初に「STILLLIVE」の概要と、極めて基礎的ではあるが、本企画の背景を成していると考えられるメディア的・歴史的な諸条件について簡単に概説しておこう。
 「STILLLIVE」は、アーティストの小林勇輝2が2019年に設立した「パフォーマンスアートを主体としたプラットフォーム」である。たんに作品の上演を目的としているわけではない。クローズドのワークショップ、ディスカッション、トークセッションとプレゼンテーションを合わせた、パフォーマンスアートの新しい創作環境を整備することが目指されている3
 「STILLLIVE」の名称は、2016年に「ダダ100周年フェスティバル」でおこなわれた「Emotion in Motion」 というパフォーマンスを契機に小林勇輝らが設立したコレクティブに由来しているという4
 当時公開されたトレーラーでは、「STILLLIVE」が「STILL」と「lll」と「LIVE」からなる造語であり、「過ぎ去り、止まってしまったかに見える歴史の瞬間が、いまを生きる人の行為により、時空を経て蘇り、現在へとつながり、生き続け、表現の礎になる」という意味を孕んでいると説明される5
 美術史家・批評家であるゴールドバーグの古典的な「パフォーマンス」の定義を参照するならば、「いまを生きる人の行為」としてのパフォーマンスとは、すなわち自らの身体を素材として、空間・時間を共有する人々に向けて行為を提示する「ライヴ・アート」としてのパフォーマンスである6
 さらに、アート・アクティビズムの政治性を通過した1970年代以後の文脈を踏まえるならば、観者との関係において生産される身体のアイデンティティや政治的・文化的・社会的な諸文脈との交接がパフォーマティブな行為を通じてあらわになること、対象の知覚ではなく生きられる出来事の受容に観者を導くことの美学的・政治的な諸形式が、批評と検証の俎上にあげられ、問題化されることになるだろう。

[1-2]「直接的なもの」と「媒介されたもの」

 さて、大雑把ではあれ「パフォーマンス」という語の意味合いを確認した。わざわざそれをしたことには理由がある。STILLLIVEというプラットフォーム型の実践を準備したメディア的・歴史的条件を確認しておきたかったからだ。ゲーテ・インスティトゥート東京のWEBページに掲載されている2019年の「STILLLIVE」の企画説明には、次のように書かれている。

小林が集めた参加者が一週間にわたってテクノロジーの発達やデジタル主体のアートが主流となりつつある今日において、アナログ性を持つ新しい表現の可能性や身体の政治性を検証し、パフォーマンスアートの実践につなげていく7

 だから、第一に「STILLLIVE」は「直接的なもの」(アナログ)と「媒介されたもの」(デジタル)の拮抗をひとつの課題として提示している8
 言い換えれば、ローカルな地理的・物理的制約を超えて大量の情報―文字・動画・写真・イラストetc―を瞬時に転送・共有・複製・サンプリング可能になったボーダレスな情報環境のなかで、〈いま・ここ〉の強い制約を受ける不自由な「生身の身体」がいかなるポテンシャルを持ちうるのか、それがあらためて問われているということだ。その再検証を迫られているという認識を小林は(当然の前提として)持っているのだと思われる。
 だから、小林は「いまを生きる人の行為」に言及する。とはいえそこで、ある意味では9ナイーヴなライヴに対する信頼が表明されているわけではない。
 つまり、身体をメディア化・商品化する支配的な――ジェンダー・民族・人種・階級等の――諸表象に対して、直接現前するがゆえにメディア化されない「生身の身体」で抵抗するといった二項対立的な図式が提示されているわけではない。
 むしろ、網状/ネットワーク的な連鎖のプロセスに投げ込まれた不安定な身体=メディウムの可変性や脆弱性に、「いまを生きる人の行為」の「アナログ性を持つ新しい表現の可能性や身体の政治性」を探求しているといった方が適切なように思われる。
 後述するように、本イベントでは13名のアーティストによるパフォーマンスがじつに乱雑に入り乱れて展開した。その様子は、インターネットを流通=循環する無数の情報群のようにほとんど追尾不能であり、同時に連想的な記号とイメージの「共鳴的」と言いうる喩的な時空間を形成していたのである。

[1-3]パフォーマンス・アートのあいまいな吹き溜まり

 もうひとつ指摘しておきたいのは、このプラットフォームがパフォーマンスアートを主体とした、と注釈されていることだ。それのどこに注目すべき点があるのか。そのことを示すために――すでに20年前の論文になるが――内野儀の「パフォーマンス・アート」への言及を参照しておこう。

パフォーマンス・アートという表現ジャンルがある。ただのパフォーマンスでもなく、パフォーミング・アーツでもなく、あるいはまた、アートとしてのパフォーマンスという非歴史的で曖昧な概念でもなく、パフォーマンス・アートというれっきとしたジャンルである。……[演劇側・美術側の双方から]ジャンルとしてのパフォーマンス・アートという認識が、少なくともまだ日本では希薄であるようにわたしには思えている……10

 内野は、1980年代以後にはアメリカにおいて「パフォーマンス・アート」という表現形式が独立したジャンルとしてポピュラリティを獲得していったのに対して、日本における「パフォーマンス・アート」は表層的な受容にとどまり、「パフォーマンス」というあいまいな語で名指されはしたが、ひとつのジャンルとして確立されなかったと指摘している11
 2011年からロンドンのCentral Saint Martins College of Art and Designで、2014年~16年にかけてRoyal College of Artに進学して「パフォーマンス」を歴史的・理論的に学んだという小林が、どのような歴史的視座の教育を受けたのか、そしてイギリスにおける「パフォーマンス」のコンテクストがどのようなものであるのか、わたしにはわからない。
 しかし、極めて単純化していえば、2020年の日本という地理的・歴史的局面においても、ジャンルとしての演劇(舞台芸術)・現代美術の双方から周縁的なものとみなされる「身体」を素材としたあらゆる――おもにサイトスペシフィックな――行為、そしてより一般的には「ダンス的」なスペクタクルが「アートとしてのパフォーマンス」というあいまいな吹き溜まりとして、ぼんやりとイメージされているのではないか。
 それゆえ、「パフォーマンス・アート」の美学的・社会的なコードが共有されていると想定可能なヨーロッパ(と大雑把に名指しておくが)をボーダレスに移動しながら、セクシュアリティとアイデンティティをめぐる自伝的パフォーマンスの系譜に連なる政治的な諸実践を展開していたと思われる小林にとって、「パフォーマンス・アート」の言説・制度・アート市場の構築的な歴史性を持たない日本の創作・受容環境では、そもそもパフォーマンスを公開する場を持つことそのものが難しいと感じられたのではないだろうか。
 だからこそ、「STILLLIVE」は日本の地理的歴史的コンテクストにおいて「パフォーマンス・アート」の受容を可能にするインフラ環境の整備を、ひとつの戦略的目標として措定していると考えられる。
 諸ジャンルの「パフォーマンス」を形式的媒体とするアーティストの技術的な交流(ワークショップ)とネットワークの構築、観客との距離を測定するためのプレゼンテーション、トークセッションの批評的な言説によるフレームワーク、そしてこの毎回のイベントそのものが、ひとつの「歴史」的なプロセスを構成するモメントになることが期待される。総じて、「パフォーマンス・アート」のプラットフォームの創設が目指されるのである。

[2]「STILLLIVE」レポート&レビュー

 さて、ここからは実際に上演されたパフォーマンについて振り返ってみたい。ただ、先述した通り、本イベントは13名のアーティストのパフォーマンスがほぼ無軌道に入り乱れるものである。昨年度に比べて参加するアーティストが増えているにも関わらず、時間は30分短縮された1時間半に設定されている12。だから、そのすべてを把握することは原理的にできない。
 そこで本稿では、幾人かのアーティストを取り上げ、そのパフォーマンスについて考えられることを展開してみることにする。最後に、「移動の速度/接触の遅延」という対比軸を設定することから、パフォーマンス・アート・プラットフォームの可能性について思考を巡らせてみたい。なお、本年度の開催概要と参加アーティストは以下の通りである。

Contact Contradiction をタイトルに3日間にわたるプログラムにおいて、ワークショップとパフォーマンスを通じてコロナ禍が人々の関係性と身体表現に及ぼす影響を検証していきます。

アーティスト:乾真裕子, 小林勇輝(主宰)、阪口智章、佐野桃和子、関優花、たくみちゃん、武本拓也、濱田明李、ハラサオリ、敷地理、中嶋夏希、仁田晶凱、野崎真由13

[2-1]乾真裕子《track.1》

 各々のパフォーマンスは会場となるゲーテインスティトゥート東京の1階ホール、ロビー、併設されたアパートの(おそらく)滞在施設、そして敷地内のエントランス周辺で行なわれた。ロビーでは、9月末~11月末までクローズドで行われていたワークショップの記録映像が展示される。
 上演は13:00〜、15:00〜、18:00〜の3回に分けて実施。わたしは最後の回を観劇したため、ホール内には前2回に使用されたさまざまな素材が乱雑に散らばっていた。
 時間になると、散発的・同時多発的に個々のパフォーマンスがはじまる。わたしが最初に体験したのは中庭の椅子に座ると「作動」する乾真裕子のパフォーマンスだった。
 ロビーからガラスを隔てたところにある吹き抜けの中庭にふと出てみると、2つの椅子が数メートルの間隔をあけて置かれていることに気づく。何気なく座ってみる。すると、ギターを抱えた乾が現れ、もう片方の椅子に座り、わたしたちはちょうど鏡合わせに対面するかたちになる。どこかしら微笑んでいるような表情でギターの弦をチューニングした乾は、とてもプリミティブなメロディを口ずさむ。
 開放的な中庭の屋外で対面するふたり。そこで奏でられる声は「あなた(だけ)に贈られる歌」という印象を強く持たせる。つまり、ふたりのあいだに内密でエロティックな関係が取り結ばれるように、このパフォーマンスは設計されているのである。
 こうして乾の声は、わたしを誘惑する。それはライヴで対面することの美的な質がいかに価値あるものかを再認識させる。しかしそれゆえに、おそらく2メートルほどあけられた椅子の距離を、接近/接触が禁じられた距離として強く意識させられることになる。
 ただ椅子があったから何気なく座った。わたしの自発的な服従は、結果的に乾=他者との「社会的距離」(ソーシャルディスタンス)を構成する。そこで乾の声の誘惑は、自然に受容されたコロナ渦の「社会的距離」がじつはあからさまな禁止の命令として身体に書き込まれていることへの批評的な言及となるだろう。
 また、エロティックな声に応答することを禁じられたわたしの身体には、大きなストレスがかかる(ことが自覚される)。それは新しい生活様式(ニューノーマル)の生産する主体性が、どんな欲望を断念させられているかも明らかにする。
 端的に、具体的な他者に呼びかけ/呼びかけられる欲望である。公衆衛生上のリスクを喚起するニュースのトレンドやヘッドライン、日々更新される新型コロナ感染者数の統計データといった情報の配置のメンテナンスで「新しい生活様式」に即した身体は管理=調整される。
 しかしそれは、境界付けられたアイデンティティ・カテゴリーに還元されない、その政治的な表象空間に穴をあけるエロティック=親密な他者への欲望が欲望される可能性をも閉ざしてしまうのだ。
 つまり、乾のパフォーマンスは、ライヴの対面性を逆手にとり、種々雑多な情報の布置で作動する「社会的距離」のコントロールを可視化する。そして、わたしたちの具体的・可触的な他者への欲望が無意識のうちに断念させられていることへの注意を促し、コロナ過における身体の政治学を鮮やかに浮かび上がらせるのである。

[2-2]たくみちゃん《Digital clock》

 それからホールに入ると、プロセニアムステージの壁にバカでかく映し出される映像がまっさきに目に飛び込んでくる。たくみちゃんの《Digital clock》である。
 たくみちゃんはネット上の時報サービスを利用して、会場のスピーカーから「午後6時20分10秒をお知らせします……」と時報を流す。そして、折り紙、絵具、クレヨン、レモン、上質紙、紙テープ、方眼紙、マジックインク、布切れといったすぐさま使い捨てられる素材たちのコラージュ、さらに小林勇輝のパフォーマンスで使用された粘土の転用によって、デジタル時計のイメージを次々と造形していく。つまりたくみちゃんは、刻一刻と流れる時間を追いかけることで、時間のイメージの再物質化を試みるのである。
 とはいえ、18:20:15、18:20:20、18:20:25……とすべての表示を新しく造形するわけではない。たとえば、マジックで18:20:15と書いた紙の「5」の部分をカッターで切り抜き、「15」を「20」にする、あるいは「5」をレモンで隠して「0」に見立てる、粘土で「5」の切れ目を繋げて「6」にするといった、極めて細かい変形と組み換えの操作を即興的に積み重ねていく。
 時間は過ぎ去るが、触れられる実体を持たない。だから、ふだんの生活では(いまこうして文章を打っていても)刻一刻と過ぎ去る時間の存在を意識することはない。たいていは13時に人と会うから12時には家を出ないと、もう21時だから寝る準備をしないと、まだ14時か、はやく仕事が終わらないかなといった次の企てのために用立てられる「有用な時間」として意識されることになるだろう。
 反対に、たくみちゃんの「刻一刻の時間を追いかける」という一見したところ無為で滑稽な試みは、しかし無為で滑稽であるからこそ、なにごとにも用立てられることのない「刻一刻」の時間の相にわたしたちの知覚を開いていく。
 だから、この遊戯的でささやかな行為の反復は、企てのための資源として消費される時間(時は金なり)を退け、〈今〉であるところの〈今〉という無用な時間にかたちを与える。
 たくみちゃんの「Digital clock」は時間の原理論を極めてユニークなかたちで提出しているように思える。「刻一刻の時間」を再物質化するアプローチは、そのまさに「刻一刻の時間」とはいったい何なのかを、行為そのものを通じて/パフォーマティブに問うているのである14

[2-3]濱田明李《steal live》

 少々時間は前後するのだが、次に濱田明李《steal live》について触れておきたい。そのパフォーマンスは、軽やかなユーモアを感じさせながら、コロナ渦におけるわたしたちの衛生観念がもたらす「不安」に反省の亀裂を入れるものだったからだ。
 端的に言えば、濱田は「鑑賞者に手を洗わせる」ことをした。そのために2メートル弱はありそうな洗面台付きのウォータータンクを用意した。備え付きの車輪もあるため、ロビーやエントランスなど、各所に移動させることもできる。濱田はある種の旅芸人のように、「手洗い」という行為のサンプルを場内各所に置いてまわっていたわけである。
 いろいろと見てまわったのち、偶然に濱田を見かけたので話しかけると、「どうぞいくらでも洗ってください」といったことを言われる。その言葉に従い、洗面台の蛇口をひねって水を出す。
 ところが、いくら洗っても、なかなか手を洗い終えることができない。なぜかといえば、蛇口から水が出る場所のすこしうしろに、ちょうど放水の様子を象ったような白粘土の造形物が備え付けられていたからだ。
 手を洗えば洗うほど、この粘土が水で溶かされ、手に張り付く。だからいつまでも汚れがとれない。ゆえにわたしは、「汚れ」の強迫観念にとりつかれたかのように、延々と手を洗い続ける。逆に言えば、そうしてわたしの身体をアクティベートするモメントが本作には巧妙に仕掛けられていたのである。
 つまり、濱田のパフォーマンスは、コロナ渦という特定の歴史的文脈に配置された鑑賞者に対し、「手洗い」という日常的な行為を提示することで、目に見えない「新型コロナウイルス」を「汚れ」として認識させる。
 さらに、感染症予防で推奨される手段であったはずの手洗いが、いつのまにか目的そのものとなってしまう(役に没入してしまう)演劇的な状況を構築する。こうすることで、医学・生理学的なカテゴリーに属するはずの「コロナウイルス」が、象徴的な「穢れ」としての意味を帯びた「感染の不安/不安の感染」(西田亮介)に転移する過渡的な状態(リミナリティ)に鑑賞者を誘うのである。
 また、濱田は「still live」をもじって「steal live」と書かれた紙を持ってタンクの前に立っていた。ふつうに解すれば、「手洗い」という日常的な行為の引用=盗用を示唆している。だが、ここにまた別の解釈の広がりを見出すこともできる。
 言わずもがな、コロナ渦において、人の密集が避けられない劇場では、消毒や検温が要請される。そこで手洗いが終わらなければ「ライヴ」は始まらない。だから「ライヴ」は盗まれている、といったように。
 しかし、こう考えることもできる。「手洗い」の煩わしさそのものを遊びに変えることができたら? 盗まれた「ライヴ」は新たなプレイとしてさらに盗み返されるかもしない。
 実際、ウォータータンクの上からマフラーを垂らしてわたしの手洗いを邪魔したり、タンクのなかにマフラーをするすると入れてみたりする濱田の行為は、その場に軽やかで遊戯的な時間をまとわせていた。そして、このユーモラスな軽やかさは、ふと、手洗いが禊ぎの手水でもあったことを思い起こさせもするのだ。
 手水は、神社にお参りするときに、手や口を水ですすいで穢れをすすぐ儀礼的な行為として知られている。しかし、折口信夫によれば、水ですすぐ行為は、琉球古語の「すでる」と関係しており、それは「蛇や鳥のように、死んだような静止を続けた物の中から、また新しい生命の強い活動が始まる」こと、すなわち母体を経ない生まれ変わりを意味していたという15。水のすすぎ(禊ぎ)は、この世ならざる向こう側の霊性を身につける、「古代的」な宗教儀礼として解釈されうる行為でもあったのだ。
 空想的ではあるが、ウォータータンクのまわりでなんだかわからないことをしている濱田のたたずまいは、どこか向こう側から現れたマレビト=精霊のようでもあった。ゆえに、この手洗いは、単に穢れの不安を想起させるだけではなく、ニューノーマルに硬直化した身体を脱ぎ捨て生まれ直すための遊具としてもあったのだと、わたしには思われるのである。

[2-4]小林勇輝、阪口智章、敷地理、関優花、野崎真由

 こうしているあいだにも、ホール内では、小林勇輝(I or Another)が服を脱ぎ捨て、精肉機からうねうねとスパゲッティ状に成型された粘土を押し出し16、阪口智章(Stretch with gum)は身体の境界線を引き直すように、伸び縮みするストレッチ素材の布に包まれ転がり、敷地理(juicy)は小林の身体に密着させたレモンを殴り、その潰れるレモンが過剰な接触の見えない衝撃と暴力のかたちを強調する。
 そんな彼/女等の様子を関優花(友達と作品を鑑賞する)は「友人」である古賀茜とともに手持ちのビデオカメラで撮影し、記録映像を展示している複数台のロビーのモニターのひとつに紛れ込ませるように転送する。
 それは、いま現在も「ワークショップ」のひとつの形態であり、このプロジェクトの流動的なプロセスの一部を構成しているに過ぎないことを際立たせるとともに、友人との親密な鑑賞を擬態するパフォーマンスから、まなざしを行使する主体性を産出しつつも、この場の出来事が複数の具体的な視点の相互依存的な「重ね合わせ」により編み上げられていることを暗示する(それはプロジェクトの枠組みを破壊する潜勢力の可視化でもある)。
 さらにたくみちゃんの《Digital clock》も進行中であり、ホール内の物置のような空間では、野崎真由(Letter from Solstice)が、祭壇を前にして儀式的な行為に没入する。コロナ渦では否定的なものとして見られがちな「ひきこもる」という生活形式が、あるいは表象の秩序からは排除される地下空間=暗闇を形成し、私的な衝動の内省を可能にする「籠り」の時間でもありえたことが思い起こされるのである。
 こうして目まぐるしい速度で変転する混沌のなかに観客/鑑賞者は放り込まれるわけである。しかし他方で、その狂騒とは一線を画すパフォーマンスが、離れのアパートでじつにひっそりと行われていた。武本拓也による《雨》である。

[2-5-1]武本拓也《雨》

 武本のパフォーマンスは、入場時に受付で手渡される「上演のご案内」と書かれた封筒の中身を見なければ、その存在に気づくことすらできない。なかには、手描きの文字が印刷された便箋が入っている。

こんにちは。武本拓也と申します。ご来場くださり、またこの手紙を手にとってくださりありがとうございます。……[このような手紙は]オンラインのクイックなやり取りに比べて、ずいぶん時間もかかるし、キョリもあるように感じます。そのキョリ。キョリがあるという事。届かないかもしれないし、届くかもしれない事。そこには、信じるという事が多分に含まれているように思います。17

 こうした文言とともに、離れのアパートで30分程度の上演を行なう旨が書かれている。ユニークなのは、その上演が1回につき1人ずつしか体験できないことだ。したがって、1時間半のイベント内で体験できるのは3人だけということになる。
 パフォーマンスは訪れた人をもてなすところから始まる。会場のアパートは2LDKほどのサイズ感で、玄関扉を開けてすぐにキッチン、食卓、応接間があり、その奥は畳張りの和室になっている。そこでまずは応接間に案内され、「お茶と紅茶がありますけど、どちらがいいですか」と尋ねられる。さらにお茶菓子まで用意され、武本とわたしはしばしの談笑に花を咲かせる。そしてそれからとなりの和室に案内され、(おそらく)10分ほどの上演を目にすることになるのである。
 これまでもわたしは武本のパフォーマンスを何度か目にしている。たいていが「ゆっくり歩いている」としか名指しようのないものだった18。しかし、このようにゆったりとしたお茶する時間を共にするのは初めてのことだった。
 意図されたものではないかもしれないが、離れの「ゆったり」とメイン会場の「目まぐるしさ」の対比は、とても興味深い感覚を呼び起こした。談笑している時にも、わたしの身体にはメイン会場の速度が残っているのである。だから、こんなゆったりしてていいのか、あれを見逃してしまうのではないかといった焦燥感がわきおこり、妙にそわそわしてしまう。
 逆に言えば、その身体感覚の矛盾は、単純明快なひとつの疑問を呼び起こす。なぜわたしは、あの目まぐるしい速度のコミュニケーションに追いつかなければならないのだろうか?
 すなわち、メイン会場の速度は、絶え間ないコミュニケーションの流通=循環に観客/鑑賞者を巻き込む。そして情報や情動が生起する場の強度を引き上げる。そうすることで、「パフォーマンス」そのものの価値の生産に知らずと奉仕するように、観客/鑑賞者の身体を作り変えてしまっていたのではないか。
 確かに、彼/女らの行為が織りなす関係性の網の目は、速度を媒介することで、意図的な主体のコントロールを逸脱し、思いがけない出会いや接続の可能性を開いていくだろう。しかし他方で、情報や情動の速度から遅れてしまうがゆえに捕捉困難な、身体の〈遅延性〉という特性を取り逃がしてしまうかもしれない。

[2-5-2]武本拓也②―身体の〈遅延〉と信頼の生成

 「ゆったり」と「目まぐるしさ」を対比させたみたとき、武本のアプローチする身体の〈遅延性〉は、より意義深いものであるように思われてくる。どういうことか、少し遠回りをしながら考えてみよう。
 先に、わたしは武本のパフォーマンスが「ゆっくり歩いている」としか名指しようのないものだと言った。ではそれは、毎回同じことをしているのか。そうではない。むしろ武本は、それを「同じことの反復」として概念化するわたしたちの知覚や認識に介入して転覆する。
 まず、「パフォーマンス」と名指していた武本の行為が、実はパフォーマンスの「虚構」と「現実」の安定した関係を突き崩してしまうことに注目してみたい。
 先の手紙によれば、武本は観客の有無に関わらず、これまで3年半ほど毎日上演を行なっているという。だからここで遂行される上演もまた、毎日の生活に組み込まれた「現実」のひとつに過ぎない。
 しかし、この言い方も正確ではない。いわば、武本の「歩行」は、ウイルスと体内の免疫システムの拮抗が崩れることで、のどの炎症や高熱といった身体の変調が引き起こされる現象に似ている。
 武本の「歩こう」とする意図の実現が「歩行」となるのではないのだ。環境に遍在する光、空気、湿度、温度、気配、質感といった情報とそれを受容する微細な感覚器の調節機能(ホメオスタシス)、その破れ目がたまたま「歩行」と名指されている現象になる。つまり武本の方法は、身体の閉じられたシステムを、環境との双方向的な関係に開くものなのである19
 だから、武本のアプローチを「虚構の構成」として見るならば、その「虚構」が指し示しているのは、環境に遍在する潜在的な情報群との交渉/相互作用的な動態プロセスである。つまり、現実=環境へのパフォーマティブな介入による新たな「身体」のプロセス的な生成こそが「虚構としての現実」を構成する。
 したがって、観客/鑑賞者は、実は武本の身体そのものの現前を見ているのではない。環境との恒常的な関係(ホメオスタシス)のゆらぎが書き込まれる場所/サイトとしての身体を見ている。言い換えれば、その場所(身体)に映し出される環境を武本とともに見ているのだ20
 しかし、環境との恒常的な関係(ホメオスタシス)のゆらぎに身体を開くためには、パフォーマーも観客/鑑賞者も、環境との関係を安定させる主体の意図や計画を手放さなければならない。そこで導入される戦略が〈遅延〉である。
 身体が環境に馴染むためには時間がかかることをわたしたちは経験的に知っている。たとえば、引越し先の住居や新しい職場に慣れるためには時間がかかる。しかし、最初はグーグルマップなしにはたどり着かなかった新居が、環境に馴染むことで、無意識に足を運べるようになっている。
 それは人に対しても言える。居酒屋で飲み食いをともにすることで、眺められるモノだった見知らぬ他人が、たとえ言葉を交わさなくても、その身体の気配、温度、質感、トーンの微細な情報の交換から、そこにいることへの配慮がなされる(いてもよくなる)具体的な他者になる。
 こうした、環境に馴染むための時間が要請される身体の特性を〈遅延〉と呼んでおこう。武本の「歩行」における〈遅延〉は、馴染むための時間をさらに極端に引き延ばしたものである。そうすることで、意識的には感知不能な、環境に遍在する微細な情報群に身体を開くのだ。
 身体は〈遅延〉を帯びた媒体である。だから、武本と和室の部屋でふたりきりになるとき、急かされ興奮させられた身体の速度のままでは、「ゆっくり歩いているな」としか思えない。しかし、武本のパフォーマンスは、その環境に馴染むための緩衝材となり、環境に対するわたしの感じられ方を解体=再形成するプロセスを設計するのである。
 速度から遅延へ。少なくとも、ここではパフォーマンスにおける美的な基準の反転が起きている。すなわち、行為する速度へのフレキシブルな「順応」ではなく、その場所(身体)に映し出される複数的・多層的な環境へのアクセシビリティ(可触性)と「信頼」の重視である。それは配慮的に身体と関与する、もうひとつの価値基準を提起しているのである21

[3]おわりに――〈速度〉と〈遅延〉の両義性はいかなるプラットフォームの可能性を開くだろうか?

 [1-3]で、わたしは日本の地理的・歴史的文脈における「パフォーマンス・アート」の位置を、あいまいな吹き溜まりという比喩で表現した。しかしそれは、だから言説的な価値づけや市場の開拓に勤しまなければならないという「べき論」を含意しない。
 むしろ、「STILLLIVE」で実際に展開されたパフォーマンスは、ジャンル・社会・政治・宗教・ジェンダーの規律=枠組みの押しつけにより「こうでなければならない」と思いこまされた身体とアイデンティティの硬直を脱ぎ捨て、また新たに組成される諸主体の産出と織り合わせから、観客/鑑賞者との新たな関係性を試行/思考するものだったと言えるだろう。
 そこでは確かに、習慣を脱ぎ捨てる速度――思考の、運動の、接触の――がパフォーマンスを試行/思考するうえでの、重要な契機となる。
 しかし、スマホのデバイスを通じた各種プラットフォーム・アプリケーションの情報ネットワークもまた、コミュニケーションの速度を引き上げ、脊髄反射的な情動のフローを組織する(TwitterやInstagramの過激で扇動的な投稿に「いいね」を押させられる、ソシャゲの課金沼にハマる)。人々の注目を集めるコミュニケーションに参加し、競争し、消費するように煽られ続ける情報環境に、わたしたちの身体が捕捉されていることもまた確かなのだ22
 だから、網状/ネットワーク的な連鎖のプロセスを減衰させる身体の〈遅延〉は、重要な切断のモメントになる。インターネットのプラットフォームでは、この身体による遅延と切断の契機こそが失われているからだ。
 複数のジャンル的・文化的・地理的・政治的境界を越える情報の速度(デジタル)と、馴染むまでに時間のかかる身体の遅延(アナログ)。その不安定で両義的な境界があらためて意識されることで、「アナログ性を持つ新しい表現の可能性や身体の政治性」の多角的な検証が可能になるのではないか。
 グローバルなメディア/権力における触発する情動のネットワークは、わたしたちを評判経済の統計的な量へと一元化する。しかし、〈移動の速度/接触の遅延〉の両義的な場の形成は、それぞれの領域に接続可能な「穴」をあけつつ、複層的な諸文脈に属する具体的な他者との〈仮設的な親密圏〉ともいえる場を立ち上げることで、その一元化に抗することができるかもしれない。
 だから、パフォーマンス・アート・プラットフォームの創設は、単に「パフォーマンス・アート」の受容環境を整備=制度化するために用いられるべきではないだろう。複数的な諸主体=アイデンティティが織り合わされ、新たな関係の発明が誘発される〈移動/遅延の媒体〉としてのプラットフォームが、いままさに必要とされている23


  1. https://www.goethe.de/ins/jp/ja/ver.cfm?fuseaction=events.detail&eventid=22042808
  2. プロフィールについては、小林のWEBサイトを参照のこと。過去作品の記録映像などアーカイブもアップされている。「自身の身体を中性的な立体物として用い性や人種的な固定概念に問いかけ束縛や流動性を表現。また自由と平等の不確かな世界を制限的な社会的コードを疑い人間の存在意義を探るパフォーマンス作品を発表。現代美術作品だけでなく、舞台や映像作品にも多数携わる。」https://www.yukikoba.com/
  3. https://www.goethe.de/ins/jp/ja/sta/tok/ver.cfm?fuseaction=events.detail&eventid=21625637&fbclid=IwAR1j6utPWudktXRfzy3JCC46YuMxrWCGzDXhFXeD5ZztFlLxWp-6gbkTs
  4. https://www.stilllive.org/intro(2016年に結成されたコレクティブはすでに解散している)。
  5. https://www.youtube.com/watch?v=guihQTNDeGQ(ただし当時は「lll」が「llll」と表記されている)。
  6. 「その本質上、パフォーマンスは芸術家による生きた芸術(ライヴ・アート)である、という単純な言明以上の正確あるいは安易な定義を受けつけない。……パフォーマンスは、多くの参照物――文学、演劇、戯曲、音楽、建築、詩、映画、空想などをいろいろに組み合わせ、展開させながら、自由に利用しているのである」(ローズリー・ゴールドバーグ『パフォーマンス』、中原佑介訳、リブロボート、1982[PERFORMANCE:Live Art 1909 to the Present,Thames and Hudson,1979])。
     本書では、20世紀初頭の未来派やダダにおける歴史的アヴァンギャルドの系譜から、アメリカのブラック・マウンテン・カレッジの実験的イヴェント(1952)、アラン・カプローの「ハプニング」(1959)を起点に、1970年代の自覚的に身体を芸術的媒体として用いるボディ・アート、自伝的パフォーマンスを経て「パフォーマンス・アート」のジャンルが自己形成されるひとつの歴史的過程を叙述している。1979年の初版では、その「周辺」として「イメージの演劇」と呼称されたロバート・ウィルソンやリチャード・フォアマンのパフォーマンス・シアターに関する言及で終わっている。2011年に出版された第3版(未邦訳)では、さらに21世紀までの動向が紹介される。
     ちなみに、演劇の側からパフォーマンスへの接近に関して日本語で読める文献としては、セオドア・シャンク『現代アメリカ演劇 オルタナティブ・シアターの探求』(鴻英良・星野共・大島由紀夫訳、勁草書房、1998)や、エリカ・フィッシャー=リヒテ『パフォーマンスの美学』(中島裕昭ら訳、論創社、2009)など。
     00年代~10年代は、むしろリレーショナル・アートやSEA(ソーシャリー・エンゲイジド・アート)のフレーミングから、ある特定の社会集団に介入する行為としての(必ずしも自身の身体を素材・媒体とするわけでもない)「パフォーマンス」に注目が集まる傾向にあったようだ。ネットで読めるものとして、星野太「拡張された場におけるパフォーマンス」の概説が簡便。他に、クレア・ビショップ『人工地獄 現代アートと観客の政治学』(大森敏克訳、フィルムアート社、2016)、アート&ソサエティ研究センター SEA研究会編『ソーシャリー・エンゲイジド・アートの系譜・理論・実践 芸術の社会的転回をめぐって』(フィルムアート社、2018)、田中均「シャノン・ジャクソン『ソーシャル・ワークス』における 「インフラストラクチャーの美学」:「アートプロジェクト」の美的評価―その理論的モデルを求めて③」などで大まかな動向を捕捉可能であると思われる。
  7. https://www.goethe.de/ins/jp/ja/sta/tok/ver.cfm?fuseaction=events.detail&eventid=21625637&fbclid=IwAR1j6utPWudktXRfzy3JCC46YuMxrWCGzDXhFXeD5ZztFlLxWp-6gbkTs
  8. 日本語で参照可能な文献としてドイツを拠点とする演劇研究者、クリストファ・バーム「舞台を代替する 演劇とニューメディア」(『演劇論の変貌』、論創社、2007)など。
  9. というのも、ライヴの生々しさがある特定の場面においては戦略的有効性を持ちうることも考えられるからだ(直近でわたしが観劇/鑑賞したものとしては、「「campfiring」の雑感–小宮麻吏奈のパフォーマンスにおける喩のふくらみを中心に」を参照のこと。問題は身体のライヴ的価値の本質主義的な信仰であり、ライヴ性もまた使用されるべき諸価値のひとつであるという相対的な視点は、好むと好まざると、いま現在の複雑化した情報環境に攻囲されるわたしたちの身体を批評的に対象化する際に必要不可欠な前提を成していると考えられる。
  10. [ ]内は筆者。内野儀「パフォーマンス・アートとは何か?」(『メロドラマからパフォーマンスへ 20世紀アメリカ演劇論』、東京大学出版会、2001)。内野は本論文で「アクション――行為がアートになるとき1949-1979」展に寄せられた東京現代美術館学芸員(当時)の岡村恵子の論文で、1980年代以後のアメリカでは「パフォーマンス」が先鋭的な力を失ったと指摘していることに対して「演劇の側から」批判的検討を加えている。そこでは、フェミニスト・パフォーマンスの政治的な諸実践と、ロバート・ウィルソン『浜辺のアインシュタイン』(1976)に代表される「イメージの演劇」系のパフォーマンスの接合としてのローリー・アンダーソン『アメリカ合衆国』(1980〜)の「スペクタクル/ミックストメディア・イヴェントとしての自伝的パフォーマンス」という見取り図を描きだすことで「パフォーマンス・アート」が「定義可能なジャンル」として大衆化していったことを跡付けている。
  11. ただし、今日では「パフォーマンス・アート」そのものの脱ジャンル化が進行しているようだ。パフォーマンス研究を専門とする江口正登は『美術手帖』2018年8月号の「ポスト・パフォーマンス」特集にて、「パフォーマンス」の用語について次のように簡潔な整理を提示している。「用語の問題としては「パフォーマンス」と呼ぶのか、「パフォーマンス・アート」と呼ぶのか、ということもある。この両者をほぼ同義語として用いる立場もあるが、あえて言えば、後者の呼称は、この語が成立した1970年代の実践ととくに結びついているように思われる。また、その時期の実践が実際にそうであったように、美術(史)との結びつきを明確に含意している。対して、今日パフォーマンスという際には、舞台芸術のオルタナティブな流れや、ポピュラー・エンターテインメントなど、美術の外の実践までイメージするのが普通だ。本キーワード集でもそうした意味の広がりを考慮して、パフォーマンス・アートではなくパフォーマンスというより包括的な言葉を用いている(後略)」(江口正登「接触領域としてのパフォーマンス」)。
  12. 1時間半×3セットのプログラムが組まれていた。新型コロナウイルス感染症の影響で、会場内に滞在可能な人数が制約されていたためだと思われる。
  13. イベント情報の掲載されたWEBページより(https://www.goethe.de/ins/jp/ja/ver.cfm?fuseaction=events.detail&eventid=22042808)。
  14. 以下、《Digital clock》の形式的な分析の試みとして意義を持ちうると思われるが、レポート全体としては少々過剰な余剰物であり、なおかつ本作の分量が飛び抜けて長くなってしまうため、別途注として記しておく。
     さて、たくみちゃんのパフォーマンスは、さまざまな質感の素材を組み合わせることで、時報の時刻をデジタル時計のイメージとして再物質化する。しかし、日常的でジャンクな素材から生まれたそれらのイメージは、美学的な洗練からは遠くかけ離れている。見るからに貧弱でいまにも崩れ落ちそうなのだ。実際、イベントが終わればすぐさまゴミとして捨てられる運命にあるだろう。
     だが、それはおそらく〈今〉という時が実際に「貧しい」ことに対応している。もちろんいまここでわたしが哲学的な議論を展開するなどというとは到底できないが、本作が提示する〈今〉の矛盾を理解するために、次のように考えてみよう。
     〈今〉は留まることなく過ぎ去っていく。言い換えれば、〈今〉はつねに変化している。だから全歴史の瞬間を通過してきた〈今〉そのものは無限の過去を潜在的に含んでいる。他方で〈今〉はまさにこの〈今〉という瞬間である。だから「今は2020年12月17日だ」という言明は「2020年12月18日」には妥当しない。ゆえに〈今〉には特定の内容がない。
     〈今〉は無限の内容を持ち、なおかつ特定の内容を持たない。これが〈今〉の語法に内在する変化と瞬間の矛盾である。本作における安っぽい素材の使用は、「今は2020年12月17日だ」という言明が「2020年12月18日」にはすぐさま偽となるように、〈今〉――たとえば「18:20:30」――のイメージをいくら現実に物質化したとしても、すぐさま消え去りゴミとなる=内容がないことを示している。
     だが、それでもたくみちゃんは、〈今〉を物質化する無益な試みを反復する。するとやがて、物質化された〈今〉の痕跡は、会場内の床や壁といったあらゆるところに、断片的な象形文字のように散らばっていく。すなわち、ゴミとして打ち捨てられるその〈今〉が、確かにあったかもしれない過去を孕んだ〈今〉――過去から未来を貫通する「18:20:30」――として空間の支持体に登記される。だからそれは変化する〈今〉が通過してきた「歴史」の暗号的な換喩となるのだ。
     たくみちゃんのインプロは時間を追いかける。言い換えれば〈今〉への没入と離反のプロセスを駆動させる。それは変化する〈今〉の無限性(散乱する痕跡)と、瞬間の〈今〉の無内容性(ジャンクなゴミ)の矛盾そのものをあらわにし、「時間」という現象の驚くべき謎をわたしたちに伝えるのである。
     もしも、「時間」のゴミが散乱する空間に美的な質を感じ取ってしまったのであれば、それはまさに〈今〉が〈今〉としてあることに秘められた「時間」の謎、その驚異(タウマゼイン)を感じ取ってしまったことの証左なのである。
    ※ なお、この議論は永井均『存在と時間 哲学探究1』(文藝春秋、2016)の第2部「時間的なのっぺりしていなさの特殊性――マクタガートの議論を中心にして――」を念頭に置いている。極めて精緻で特異な時間論が展開されているので参照されたい。
  15. 折口信夫「若水の話」(https://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/1839222336.html
  16. 「精肉機から粘土を押し出す」小林のパフォーマンスは、ハラサオリとDance Base Yokohamaが主催する「PORT」という「身体表現の研究プログラム」内におけるショーイングではじめて公開された。そのときのトークで、小林は「男性性のリスクを引き受ける」「精子(射精)の隠喩は暴力になることもある」といった主旨のことを話していた。つまり、精肉機の穴から押し出される白い粘土は「精子」の隠喩であるということだ。わたしはこれを見て、男性性が持つ「加害性」についての思考を促された。
     昨今では、市原佐都子が主宰する劇団Qのように、女性性を快楽の対象として消費する男性中心主義的な視線に対する批判的な挑発のみならず、女性性を対象化する異性愛システムの基準そのものを逸脱した(男性からどう見られているかの基準を内面化しない)、いわゆるクィアな演劇も見られるようになった。
     しかし、(わたしが無知なだけかもですが)男性のジェンダー規範ではなく、セクシュアリティを問題化した上演やパフォーマンスは、あまり見られないように思う。その意味で、精子、というよりおそらくより正確には射精という性現象が生産する(女性差別的な社会規範や制度の加害性という意味では必ずしもないと思われる)「加害性」の位置に言及する小林のパフォーマンスは、ひときわ興味を惹かれるものであった。それを批判的に検討する視座や枠組みについて語る言葉をいまは持たない。熟考したい。
  17. [ ]内は筆者。
  18. 2-5-2でも指摘するが、武本のパフォーマンスにおける、知覚の反転を誘発する行為遂行性については、武本拓也ソロ公演『象を撫でる』(SCOOL、2018)のレビューで触れたことがある。「一人の男。少しばかり手を広げ、真っ白な、何もない空間を、超低速で、歩く。いや、違う、歩くのではない、もっとも敏感な〈性感帯〉へと皮膚を裏返すようにして、その身体を剥き出しにする。その剥き出しが徐々に観客の温度を、空気の震えを、さざめく環境の生活音を、捉えて感知するフィギュールが、私たちによって〈歩行〉と呼ばれている身体動作と似た何かとして、顕れてくるのである。」(「バートルビーの影」、artissue No.011、2018、http://www.d-1986.com/artissue/a11/011sishibukawa.html
  19. ここでの「環境」は、基礎的にはユクスキュルが提唱した「環世界」の意である。日髙敏隆『動物と人間の世界認識』(ちくま学芸文庫、2007)では、「それぞれ主体となる動物は、まわりの環境の中から、自分にとって意味のあるものを認識し、その意味のあるものの組み合わせによって、自分たちの世界を構築しているのだ」と解説されている。
  20. 「その場所(身体)に映し出される環境を見ている」は、「「campfiring」の雑感」の以下の経験を念頭に置いている。「夜の暗闇の神話性、煌々と照り続けるショッピングモールの電光掲示板、山内祥太が流していた『華氏451』でファイアマンのモンターグが追い詰められるシーンの騒音、そしてここが収容所の跡地であるという歴史性。エリア内のどこかをゆっくりと移動する武本の身体は、こうした諸文脈を交差させる忘れられた遺物のように、見る者の世界の受け取り方を多層的に編み上げていくのである。」
  21. 速度をめぐる演劇的思考から、遅延のパフォーマンスを構想した日本の劇作家・演出家には太田省吾がいる。検討は必要だが、武本の上演に対する姿勢と共通する点が多々あると思われる。
     ところで太田の演劇的思考には、社会的行為の反復からもろもろのアイデンティティが生産されるとする、J.バトラーが明示的に理論化した行為遂行性(パフォーマティビティ)と共通する認識を見て取ることができる。しかしそこには重要な差異もある。
     あるとき太田は、稽古場で「コップを取って水を飲む」俳優の演技を繰り返し見ているうちに、一つの発見に至ったと言っている。「いわば裸の繰り返しだった。……ある人物という主語、つまり〈役〉とは、ある住所氏名年齢職業性格、といった限定をもち個別性をもつということだが、それらを失い、それらを超えていった。それらの動作の主語、主体は、ある俳優の身体を通してであるが〈類〉へ近づいていったように思えた。ある俳優の身体が、人類、人間と溶け合うように思い、それを、私は美しいと感じたのだった」(太田省吾『舞台の水』、五柳書院、1993、p27)。
     遅いテンポの動作の反復は、個別の身体から社会的属性を抹消する。主体は非人称的な行為そのものとなり、人類という普遍に同一化する。太田はそこに「美」を見出す。しかし、そこで呈示されているのは、あくまでも20世紀後半の日本という地理的歴史的な条件に規定された身体性の産出である。あらゆる差異の抹消は、現実に存在する「あなたは誰であるか」という差異の隠蔽であり、それは当然、全体主義に傾倒する危険を孕んでいるだろう。
     なにが言いたいのかというと、武本における遅延のパフォーマティビティは、そうした差異の抹消と「人類」への全体主義的な美的恍惚を招き寄せる可能性があるのではないか、それを検証する視点は必要ではないか、ということだ。本論から読み取られると思うが、わたしはそうではないと見ている。だが、日本の現代演劇/上演は、太田的な存在の美学に基づく上演を構想する傾向があるように見えるので、注意を促しておきたい。
  22. 詳細に言及することはできないが、プラットフォームの創発的なクリエイティビティの可能性は、00年代後半から日本のオタク文化批評の文脈で指摘され続けている。ニコニコ動画のプラットフォーム特性を分析し、それを含み込むかたちで「映像圏」のコンセプトを提示した渡邉大輔『イメージの進行形』(人文書院、2012)、黒瀬陽平『情報社会の情念』(NHK出版、2013)、濱野智史『アーキテクチャの生態系』(NTT出版、2008)など。そこでプラットフォームの創発的ネットワークは、どちらかといえばポジティブな価値づけがなされていた。その否定的な側面の反省と再文脈化は、課題であるように思う。
  23. なお、日本語圏とも接続されたパフォーマンス・アート・プラットフォームには、1980年以降のパフォーマンス・アートを対象にデジタル記録映像アーカイブを作成している「Independent Performance Artists’ Moving Images Archive (IPAMIA)」(https://ipamia.net/)や、2018年から福島、大阪、フィリピン、諏訪、シンガポール(予定)などで開催され、間文化的なネットワークを広げつつ「日本国内におけるパフォーマンスアートの可能性を広げるとともに、アジア各地における当該分野の発展に資するネットワークを構築する」ことを目的に同時代的な社会・環境の課題に対するパフォーマティブな実践による応答を試みる「Responding」(https://r3.responding.jp/)などがある。また、2020年度のSTILLLIVEに参加している振付家・ダンサー・美術家のハラサオリは、同年度、アーティストの相互批評を軸にゲスト講師のレクチャー、ディスカッション、ワークショップ、ショーイングなどのプログラムが組まれた身体表現の研究会「PORT:Performance of Theory」(https://dancebase.yokohama/eventpost/20201204-2)を立ち上げた。

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