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都市と村の分裂ーーWWFesは公共空間を賦活するか?

WWFes2021を俯瞰する

 2021年、12月23日〜26日にかけて、スパイラルホール(青山)と、7days巣鴨店(巣鴨地蔵通り商店街)でWhenever Wherever Festival 2021が開催された。WWFes(ウェン・ウェア・フェス)との略称で知られる本フェスティバルは、山崎広太がディレクターとなり、2008年に設立された「Body arts laboratry」(BAL)主催のパフォーマンスフェスティバルだ。今年度は「見えない都市」をコンセプトに掲げる「Mapping Aroundness──〈らへん〉の地図」(以下、らへんの地図)と、「Becoming an Invisible City Performance Project〈青山編〉──見えない都市」(以下、BIC) というふたつのプログラムを実施した。
 「らへん」と「BIC」の概要に触れておこう。「らへんの地図」は⻄村未奈、Aokid、福留麻里、村社祐太朗、七里圭、岩中可南子、沢辺啓太朗、いんまきまさこ、山崎広太、木内俊克・山川陸(会場構成)のキュレーションによる30ほどのイベントで構成されている。23〜24日はスパイラルホール、25〜26日は7days巣鴨店を中心にした複数の会場で、ショーイング、ワークショップ、トーク、ツアー、パフォーマンス、そして「新進振付家によるワークインプログレス公演」など、観客とのあいだに緩やかで流動的な関係を生起させる雑多なイベントを展開した。観客はいくつかのプログラムを渡り歩くことで、「らへん」と呼ばれる「見えない都市」の領域に入りこんでいくというわけだ(わたしは24日プログラムのみ参加)。
 一方、山崎広太振付のBICでは、25〜26日の2日間にわたり、「28名のアーティストによる計13時間の上演」が行われた。普通にイメージされる「ダンス公演」といった類のものではなく、計画されたタイムラインに準じて、ソロ、複数人、あるいは数十名(出演者全員?)、さらに観客も参加する祝祭的なダンスパーティーも含みこんだ即興性の強いダンスパフォーマンスが展開される。わたしは26日のみ観劇したのだが、そこでは「身体の 70%は水分」、「自然との対峙、出るものは声」、「言葉のアナーキズムへようこそ」などと名付けられたシークエンスが淡々と舞台上に現れては消えていった。
 さて、概要を見るだけでも「ごちゃごちゃしている」と感じるのではないだろうか。実際に、ごちゃごちゃしているのだ。予約システムも複雑で、わたしは事前に観劇を諦めかけたほどだ。全体を睥睨するのはほぼ不可能と言っていい。しかし一方で、24日の「らへん」と26日の「BIC」を通過したのち、わたしはそれとは相反した感想を持ち、ある種の不満を感じていたのだった。つまり、雑多なわりにはそれほど身体の制度を〈困惑〉させないなと。
 そこにはおそらく私的な「勘違い」、そして「らへんの地図」と「BIC」の分裂に象徴される舞台芸術の社会的位置づけに関係する構造的問題が孕まれている。その問題の輪郭をいくばくかでも明らかにする目的でこの雑感は書かれる。

WWFesは何を目的にしたフェスなのか?

 最初に、WWFes2021のイントロダクションを参照しよう。

WWFes(ウェン・ウェア・フェス)は、ダンスアーティストらによるコレクティヴが運営するフェスティバルです。身体をキーワードに新たなパフォーマンスの形態を探りながら東京で実施を重ね、9回目を迎えます。★1

 「ダンスアーティストらによるコレクティブが運営する」とあるように、WWFesの特異な点は、複数人の共同キュレーションによる運営形態をとることだ。フェスティバルの方針は、ただひとりの意思決定に集約されることなく、アーティスト相互の対話的・協働的なプロセスのなかで形作られていく。BALの公式WEBサイトには「WWFes運営委員会」のメンバーが次のようにクレジットされている。

運営メンバー 
Aokid|ダンサー/振付家/アーティスト
岩中可南子|アートマネージャー/コーディネーター
木内俊克|建築家
沢辺啓太朗|アーカイビング/メディア戦略/広報
七里圭|映画監督
西村未奈|ダンサー/振付家
福留麻里|ダンサー/振付家
村社祐太朗|演劇作家
山川陸|建築家
山崎広太|振付家/ダンサー★2

 それぞれがダンス、映画、建築、映画、演劇の各領域に軸足を置きながら、領域横断的な実践を展開する人々の集まりである。それでは、このようなアーティスト主導型のフェスティバルは、どのような経緯や目的でスタートしたのだろうか?
 初年度、2009年WWFesのステイトメントには、NYを拠点に活動するようになってから「欧米と日本のダンス環境の違い」を痛烈に感じ取った山崎広太が、ダンス環境を「少しでも良くする」ために「日本の土壌に見合った新しいスタイルで、美術、音楽、ダンス等が交差するアートのフェスティバル」を企画したとある。WWFes2009では「新人振付家育成のためのスタジオシリーズ」をはじめとして、ダンサーを自認するわけではないアーティストによる実験的なショーイングやパフォーマンスのプログラム、お互いの振付・メソッドを交換するレクチャーワークショップ「エデュケーション・プログラム」などが実施されていた。
 ちょうど2009年付でBICアーカイブに公開されている「振付家・山崎広太が文化庁海外研修について寄せた手紙」では、NYにおけるダンサーの海外研修に関する問題提起がなされている。ダンステクニック習得のために数多くのオープンクラスを受ける研修生活は視野搾取に陥りやすい。だから「ダンス・フェスティバルへの研修制度」を設けたほうが良いと。さらに、2011年付けの「Whenever Wherever Festival 3年間を振り返って」を参照すると、

NYでは、特に実験性の強いダウンタウンのダンスシーンで、多くのアーティストが作品創作することを超えて、何らかのかたちで色々なプログラムや活動に関与しています。通常の劇場で新作公演はそう頻繁にできない厳しい現状でも、公演以外のプログラムをアーティストが立ち上げ、考えやビジョンを共有することで、逆にそれぞれのアイデンティティが生まれ、ダンスシーン全体の活性化やアーティスト同士のアクティブな関係につながっていきます。★3

 こうして山崎は公演のみを評価する作品至上主義を批判する。そして、アーティスト同士のコミュニケーションから自発的に立ち上げるアートコミュニティの必要性を強調する。なぜなら、コンテンポラリーダンスとは「基準がなく何でもありのダンス」であり、独自の身体を通じて新しい世界のパースペクティブを切り開く試みであるからだ★4。わかりやすい娯楽(ファンサービス)や保守的な審査員のダンスコンペ(スター発掘)に準拠する、既成の価値観(みんなが良いと思うもの)に依存し流されるのではない、独自の価値基準を打ち立てるインディビジュアルな振付家・ダンサーの育成環境がなければ、「コンテンポラリーダンス」というオルタナティブな身体芸術の領域は存在できない。
 つまり、日本にはコンテンポラリーダンスを育てる環境がない。だからダンス界のシステムを変革しなければならない。10年前の山崎はそう考えた。その問題意識は、ダンスコミュニティを活性化するアーティスト主導のフェスティバルに結実し、WWFes2021にまで引き継がれた。WWFesには明確な目的意識がある。
 ところで、このような初発の目的意識をたどり、わたしはすこしばかり驚いてしまった。なぜか。あろうことかWWFesのコンセプトを勘違いしていたからである。

「らへんの地図」はダンスフェス?

 新しい(コンテンポラリー)ダンスが生まれる創作環境が日本には欠落している。WWFesは、ダンスフェスティバルを通じてダンサー・振付家の実験と育成をサポートするアートコミュニティの創設を目指す。しかし、どうしたことか、わたしはそもそもWWFesをダンスフェスティバルだと認識していなかったのだ。なにか新しい集まりの仕組みを構想するトライアルのようなものだと勘違いしていた。いわば、「らへん」と「BIC」のうち、「らへん」側に依拠するかたちでWWFesをイメージしていた。
 無知ですみませんという感じだけれども、そこには明快な理由がある。わたしは2018年に開催された「そかいはしゃくち」に、新聞家の村社祐太朗がキュレーションを担当した「演劇のデザイン」と『無床』を観劇する目的で足を運び、ほぼそのついでといった風情でWWFesを知ったからだ。
 キュレーターは2021年WWFesの運営にも参画している福留麻里、aokid、村社祐太朗、七里圭の4名。村社祐太朗文責のステイトメントでは、

時間単位で区画は切断・接合され、機能は順次移動し、導線は書き換えられていく。その目的は遮音がされた芝居小屋を複数建造することではなく、複数のダンスが一 つの景観の中で共存することである。★5

と企画趣旨が説明されている。そこで示された「共存」のデザインは、「専有」と「共有」のどちらでもない「借地」の概念に立脚する。それは複数の芝居小屋=コミュニティの壁を高くして交通を遮断するのではなく、壁を取り払ったひとつの場所を共有するのでもなく、「自他の利害をうまく調整しながらひょうひょうと」「居合わせた人々によって適宜設えられ」る「取り決め」により関係の境界を絶えず変容させ続ける仮設的な共在=交渉の場である。
 このステイトメントを具現化するために、会場となった北千住BUoYの地下空間には、いわば複数の区画を〈網戸〉で仕切るようなーーつまり区画は決められていても仕切りのないーーいくつかのスペースが設けられ、4人のキュレーターによる複数のイベントやパフォーマンスを同時進行させる極めて実験的な試みがなされていた。それら同時進行するイベントは、互いの「領地」を侵犯する音や行為の侵入をゆるし、どこまでも妥協と調整を必要とする騒々しい空間を出来させていた。
 こうして、わたしのなかのWWFesは「騒々しい雑居」の印象で記憶された。そのため、24日に体験した「らへん」のプログラムにある種の中途半端さを感じたのである。
 その日は、11:00からAokidの「Try Dance Meeting」で「野口整体」や「身体感覚の調整」にまつわる話をし、それから篠田千明をツアーガイドとする「忘れ物ビーチツアー」に参加した。「未来人の忘れ物」を探索するという名目でスパイラルホールの周辺をぐるりと巡る。スパイラルホールに戻り、ホワイエで行われていた「たくみちゃんのインプロヴィゼーション・メソッドワークショップ」を横目で見ながら、「青い山 WIP:新進振付家ショーイング」をホール内で観劇。15:30からは同じくホール内で七里圭監督「《清掃する女》CG with パフォーマンス」、16:00のホワイエで「山彦さんへ 小さくなったり大きくなったりします!」のパフォーマンスを30分ほど見て、ホールに戻り「over boundaries〈コント篇〉+〈演劇篇〉」。〈コント篇〉には、「O,1、2人(外島貴幸+吉田正幸)」と「明日のアー」、〈演劇篇〉には山縣太一と村社祐太朗が出演した。
 めまぐるしいスケジュールに感じられるかもしれない。実際にめまぐるしいのだ。しかし、イベントは「ホール」「ホワイエ」「青山周辺の街路」、そして(わたしは体験していないが)西村未奈キュレーションによる「The Nature of Physical Reality:知覚と身念」が行われた「控室」のどれかに分類される。そのあいだの侵食や移動はなく、制度的に区切られた場所のルールに行儀よく従っている印象を受ける。
 また、プログラムのほとんどはホールで実施されている。あくまでもホール内をメイン会場としたうえで、ホワイエや会場周辺を使用したイベントはそれを補完する副次的な役割を与えられる空間構成になっている。
 さらに、劇場環境を相対化するツアー型の参加イベントは、どうしても少人数の敢行となりーーおそらく意図せずしてーー出入り自由で開かれたホールに対する「裏チャンネル」のような構造的な位置を持つことになった(「裏チャン」の位置づけそのものは一貫して揺るがない)。
 劇場には字義通り、そして比喩的に、既存の椅子(客席)に座らせる圧力が働く。「観客=席」の制度や約束事に介入する環境設計なしに、「らへん」のようなどこにも帰属しないあいまいな境域を出来させるのは難しい。ありていに言えば、中途半端に裏チャン作るくらいなら、ちゃんと舞台作品を見せて欲しいんや、と思ってしまうのだ。
 しかし、これら劇場の制度に対する反省意識はほとんど自明性の範疇に属する。にもかかわらず、スパイラルホールの空間の制度を撹乱する仕掛けは試みられることなく、ホールをメインとする空間の導線が保持されたのは、おそらく企画全体を「BIC」に向けて調整した結果だろうと思われる。

28名のパフォーマーによるBIC〈青山編〉では、青山を都市の空白と捉え、そのエンプティに満ちた風景から、見えないがリアルな意識や知覚を採集しスコア化、それをダンスとして発表します。★6

 WEBサイトで説明される通り、ホール内は空間の「空っぽ性」を強調するつくりになっていた。舞台と客席を分離する対面式の舞台空間ではなく、入口側に音響・照明ブースと3列ほどの座敷席、そして左・奥・右の壁ぞいに一列だけ客席を並べることで、観客の視線が集まる「真ん中」に見えざる空間の気配を立ち上げる。気配に満ちた「空白」の効果は、上演空間が暗闇に沈むことで倍加する。
 加えて、ホール内は出入り自由であるため、外部=まちの空気とのつながりは断ち切られることなく上演空間に流れ続ける。13時間のプログラムが組まれてはいても、機械的に進行する時間を感じさせることなく、公園のベンチに座り風景を眺めるような、たゆたう時間の感覚を喚起する。
 確か「言葉のアナーキズムへようこそ」のシークエンスだったと記憶するが、青山には室伏鴻の開設した劇場があり、そこは酒場であり墓場であると言われていたという逸話が語られる。「都市の空白」として立ち上げられたこの劇場空間もまた、酒場であり墓場であり、青山の見えざる気配=幽霊的なものが呼び出される儀礼的な場であるのだ。
 このように、まなざしと気配の関係から「空白」を感受させ、「青山」に眠る複層的な意味の地層を掘り起こすBICの上演空間は、まったく見事なまでに作り込まれている。28名のダンサーによるBICのプログラムは、山崎が目指していたさまざまな世代・出自のダンサーが一同に集まり、各々独自の実験的なダンスパフォーマンスを通じてビジョンを共有し、新しい世界の視座を切り開く未来に投げ出された〈いま〉のダンスーーコンテンポラリーダンスーーをまさに実態化するものであっただろう。
 しかし、それではーー「らへんの地図」は? それはそもそも山崎が当初構想していたWWFesの延長線上にあるダンスフェスに含まれるものなのだろうか?

「らへんのむらづくり」はどこに?

 2021年3月21日に公開されたWWFesのnoteより。

2009年より活動してきたwwfesは、2018年のフェスティバル「wwfes2018 そかいはしゃくち」での試みを発展させるべく……2019年度「wwfes2019 しきりベント!vol1,2,3」、メンバーそれぞれの個人リサーチの積み上げから次なるフェスティバルの可能性を議論する2020年度「wwfes2020 まつりの技法」と活動を重ねてきてました。2021年度は最終年度ということで、フェスティバル「Whenever Wherever Festival 2022 らへんのむらづくり」を2022年2月に開催予定です。★7

 誤解があるかもしれない。しかしここから読み取れる範囲では、3月21日の段階で、WWFesは、WWFes2018の試みを発展させる方向で「まつりの技法」のリサーチを進め、最終的に「らへんのむらづくり」としてアウトプットされる予定だった。
 「むらづくり」である。DASH村か。なんだかクスリとしてしまうけれど、そんなことはどうでもよくて、いや、実はどうでもよくないということを言おうとしているのだが、ともかくまず、この時点でWWFesは2022年2月に「らへんのむらづくり」として開催される予定であり、その後、なんらかの経緯が挟まり、「BIC」と「らへんの地図」の二本柱で構成された2021年12月スパイラルホールのWWFes開催が決まったということだ。
 分裂である。いや、音楽性の違いで解散しましたみたいなことではなく、たしかにわたしは24日、それから26日のスパイラルホールに足を運んだあと、WWFesに内包されていた二極の方向性が、「らへん」と「BIC」の分裂としてプログラム構成に反映されたのではないかとぼんやり思考を巡らせていたのだった。それというのも、前節で指摘したように、WEBサイトやフライヤーを見る限りでは同格のプログラムであるはずの「BIC」と「らへんの地図」のあいだに、メインとサブの階梯を見て取ることができるからだ。本公演としての「BIC」と、ロビーイベントとしての「らへんの地図」と整理されていたほうが、よほど企画趣旨を飲み込みやすくなっていた。
 分裂、ではないが、WWFes2021のメンバーは、一度、紅組と白組の二チームに分かれていたのだった。おそらくほぼ告知されておらず誰も知らない可能性があるためここに記録しておきたいと思うのだが、白組の西村未奈、村社祐太朗、山川陸、沢辺啓太朗は2021年7月28日に巣鴨7daysでミニWSイベントを開いた。そして、このイベントからわたしは露と消えた「らへんのむらづくり」の雰囲気を受け取っていた気がする。
 その日、告知された会場に着いても、シャッターが閉まり誰もいないのだ。仕方なく1時間ほど待ったと思う。ようやく姿を表した彼/彼女らに聞くと、向かいの定食屋で昼食を食べていたらしい。しかもミニWSはやめて、まちあるきをすることにしたと言うのである。
 なんたるデタラメ。そこからまちあるきに同行し、とあるおもちゃ屋に立ち寄り店番をしていた主人に自然と話を聞く流れになる。すると、店の主人は、子供のころ焼夷弾の直撃を受け顔が焼けただれてしまったことや戦後の闇市のエピソードに触れ、食料がなくて飢えていた時代に比べて、いまは本当に平和になったとしみじみ語る。
 この方向性の定まらないデタラメな移動と移行の領域こそ、〈らへん〉なのではないか。〈らへん〉の境域では、予定が頓挫し、活動の形態がいつの間にかすり替わり、現在と過去の境界をまたぐ無名の物語が、間欠泉から湧き出る熱水のように、予期せぬかたちで噴出する。
 時間の関節を外し、いま見えているまちの風景に無数の亀裂を走らせる。(実際やられてないので)想像の域を出ないが、「らへんのむらづくり」なるものがあるとしたら、それは生活が営まれるまちとの偶発的な交渉のただなかで起こる、刹那的な変容の瞬間瞬間に見出されるものではないか。
 だとすれば、「らへんのむらづくり」と都市の文化施設を舞台にした短期的なフェスティバルの相性はすこぶる悪い。なにしろ、〈らへん〉の周辺ではWSがいつのまにか散歩になり、散歩がいつのまにか昔語りになり、昔語りがいつのまにか「平和な生活」の歴史的偶然性への洞察を閃かせる。そのようにして行為や身体や生活や思考、アイデンティティの境界線を次々と書き換え、置き換え、修正する絶え間ない翻訳のプロセスそのものが〈らへん〉なのだ。ゆえに、〈らへん〉は気まぐれな移ろいを物質的・制度的に受容可能な〈場〉を要請する★8

「BIC」と「らへん」の噛み合わなさ

 WWFes2021の会場となったスパイラルは株式会社ワコールが運営する「生活とアートの融合」を活動コンセプトにした複合文化施設だ★9。基本的には豊かな生活のイメージを生産し、企業のブランド価値、商品価値を高める資本の論理に従う。その良し悪しを述べたいわけではない。ただ、当然ながら、経済活動が行わる都市空間は消費者一般(マス)が行き交う匿名性を刻印された見知らぬ人の空間である。巣鴨地蔵通り商店街のおもちゃ屋の主人に話しかけるのとはわけが違い、スパイラルで労働しているショップ店員に話しかけても(基本的には)人格的な交流など生まれるはずもなく、ハラッサーとして迷惑がられるだけだろう。
 つまり、スパイラルには、匿名的な消費者一般(マス)に配慮した見えない規制ーー儀礼的無関心のようなーーが働いている。スパイラルホールを使用するアーティストが、いきなり計画を変更して、気まぐれにスパイラルのなかを歩き回られては困るのだ。あるいは、大人数で青山周辺をツアーされたら、クレーム案件になるかもしれない。クレームはアートの天敵である。それはアートがデザインする豊かな生活を毀損する。
 わかりやすく誇張して述べているけれど、それでもスパイラルホールでの(わたしが想像したような)「らへんのむらづくり」は実行困難だったと思われる。その困難は「らへんの地図」に名称を変えても消え去るわけではない。
 しかし、なにも裸になって壁をぶち破れ! などと言いたいわけではない(それもまた肉体の神話というイデオロギーに準拠している)。「らへん」のプログラムは劇場やスパイラルの空間を規定している制度的構造の〈取り決め〉に対して、あまりにも無防備だったのではないか。そこではすでにアートの経済的有用性を求める資本の圧力と、逸脱を排除する常識という名の社会規範が働いており、チケット料金の設定、使用できる空間、会場周辺をツアーできる人数、そして個々のアーティストの振る舞いまで、実現可能なパフォーマンスの範囲は条件づけられている。それらを易々と受け入れるだけでは、少なくとも強固な規制が働く商業施設で、境界を撹乱する〈らへん〉の移ろいは見えてこない。
 青山表参道というエスタブリッシュされた都市と、スパイラルに働いている見えない規制にうすうす気づきながら、そこに目を瞑り約束事を受け入れるあいまいさ。しかし、制度との摩擦と撹乱なしに、独自の身体、独自の価値基準を打ち立てるコンテンポラリーダンスのムーブメントなど生まれようがあるのだろうか?
 というわけで、わたしは中途半端に同時多発的な参加型プログラムなどやらないで、〈らへん〉を生起させるプログラム/パフォーマンスを劇場の制度を使ってやればいいのに(舞台作品を作るべき!)、とほのかな不満を覚えたわけだけれど、これは本企画の噛み合わなさを感知したとも言い換えられる。いわば、山崎が構想したWWFesの理念を体現するダンス作品の「BIC」と、WWFes2018に端を発し、新たな「まつりの技法」で〈他〉と出会う集まり方の発明を志向する「らへんのむらづくり/地図」という二極の分裂を抱え込んだゆえの噛み合わなさである。
 だから少なくともWWFes2018で何かしらの変容があった。普通に言えばそれで話も終わる。しかし最後にわたしはこの分裂に、日本という場所に条件付けられたWWFesが当初から抱え込んでいた〈分裂〉の露呈を読み込んでみたい。まずはもう一度、山崎広太の企画意図にまで立ち戻る。

公共の地すべりーー都市と村の分裂

……特に若い振付家は日本の社会において、なんとか、その存在価値を見出そうと、娯楽性のある作品を創ることで大衆にアピールするか、または審査に依存する傾向に流されていきます。……また、マネジメントを行う方々も、そのような傾向の下で、成功した振付家のみを企画に載せたり、スター発掘のようなことを行ったりと、コンテンポラリーダンスの一元化に拍車をかけている状態です。★10

 日本の舞台芸術は、商業的なファンサービスと業界のスター発掘を両輪とした保守的なシステムを維持することで回っている。そこではコンテンポラリーダンスの持続的な発展の余地がない。10年前の山崎はこのような問題を提起した。その解決の糸口として、振付家・ダンサーのクリエイションをサポートする環境の構築を目指し、独自の思考・感性・身体を持つアーティストが出会い、対話し、相互に影響を与え合うことで新たなビジョンを共有するWWFesを始めた。
 こうして初発の問題意識を振り返ると、山崎は日本という場所に娯楽(ファンサービス)と芸能(業界)はあっても「私」が帰属する共同体への批判的思考を働かせる場所としての舞台芸術(コンテンポラリーダンス)がないと言っているに等しい。
 公共空間は、諸コミュニティの越境と対話を可能にする、多様な他者に開かれた交通の場である。しかし、舞台芸術は〈他者〉とのあいだに開かれ、芸術的・社会的交通を可能にする公共空間のメディアとして日本社会に根ざしているわけではなく、そのような認知も期待もされていない。ゆえに、日本という場所に条件付けられた舞台芸術の生息領域は、商業(コマーシャリズム)と地域(コミュニティ)のどちらかに帰着する。
 舞台芸術に公共空間のメディアとなる社会的役割が期待されていない。それは助成金の多寡とはまた別のはなしである。国や自治体の公的機関からの助成金で運用されるプロジェクトであったとしても、〈外/他者〉への関心を欠如させているのであれば、公共を賦活する役割はアーティスト自身においてあらかじめ放棄されている。それではWWFes2021はどうだろうか?
 「BIC(見えない都市)」と「らへんの地図(むらづくり)」への分裂は、日本の舞台芸術が置かれた社会的位置に起因する構造的問題を象徴していたように思える。一方ではフェスティバルの間口を広げより公的=オープンな性質を持たせるために、アートの交換価値を媒介にした商業的な文化施設を抱える都市空間がフェスの舞台として選ばれ、他方ではアートコミュニティとの日常的な関わりを持たない生活者と名付けうるような〈隣の他者〉との具体的な間-人格的関係をつなげるために、巣鴨地蔵通り商店街のような地縁的な絆が残る下町のコミュニティに入りこむ。
 WWFes2021は、いわば都市の芸術と村の芸術に分裂したのだ。もちろん、両者の試みはスパイラルホールという場所に混在していたのだから、きれいに分離できるわけではない。それぞれの手法で多様な他者/コミュニティ、そして具体的な他者/コミュニティのあいだにある公共空間を開くための試行錯誤がなされていた。だから、(象徴的な)都市と村のどちらに軸足を置くかで、公共への志向性を推し量れるわけではなく、むしろ重要なのは、日本という場所の文脈では、舞台芸術の公共性がつねにすでに都市と村のどちらかに地すべりを起こしてしまう、その政治的・社会的・歴史的構造の力学を認識することにある。
 都市(コマーシャリズム)と村(コミュニティ)のどちらかの極に引き裂かれ、諸コミュニティの越境と対話を可能にする公共(パブリック)の領域を欠如させた日本の舞台芸術が抱える構造的な問題に対して、WWFesはアーティストの自治組織(コレクティブ)を立ち上げることで、実験的かつ持続的な応答を図ってきた。それは間違いなく、共同体の安住からアーティストを連れ出す起爆剤になるものだったと思う。ここからさらにWWFesが公共空間を賦活する現場として、どのような変容を遂げていくかは、おそらくそこに関与する観客らの応答にかかっている。舞台芸術を私的な趣味の領域に押し留めているのは、まさに〈わたしたち〉がそれを求めるがゆえなのだから。

  1. https://wwfes2021.wraptas.site/ma/top
  2. https://bodyartslabo.com/wwfes2021/festival
  3. https://bodyartslabo.com/about/history/wwfes/
  4. 「コンテンポラリーダンスの定義と人材育成のための政策について 」、https://bodyartslabo.com/about/history/opinion-2009-1/
  5. https://bodyartslabo.com/wwfes2018/files/2018/04/wwfes2018_web.pdf
  6. https://wwfes2021.wraptas.site/bic/top
  7. https://note.com/wwfes/n/n1a70e640f9ea
  8. わたしはここで形式の話をしている。たとえば、店の主人をゲストにした「戦中の悲惨さ」なるテーマのトークイベントでは駄目なのだ。自他の境界が移ろう〈らへん〉の周辺だからこそ、自己のうちに〈他〉が潜り込み、「他者から到来したかのように」聞かれる声は生まれうる(そしてこの仕掛こそが演劇である)。
  9. http://www.expo2005.or.jp/jp/pdf/N2.1.105_10.pdf
  10. https://bodyartslabo.com/about/history/opinion-2009-1/

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